38会
東京近辺に昭和38年卒の卒業生が約80名程います。
年に一度の同窓会はワイワイガヤガヤ、この時ばかりはタイムスリップして青春を取り戻します。
今年(1999年)は7月18日に田無駅前の「鮮の庄」で38会を開催しました。
「今!融合(猶興)の時 ひらんど」
これは、一昨年(平成9年)38会が東京支部の総会・懇親会の幹事役を務ましたが、その時発行した冊子の表紙です。その時のタイトルが「今!融合(猶興)の時 ひらんど」でした。
その時皆様から寄稿頂いた一節をご紹介します。
■「丘陵と海と人の暮らし」 寄稿:久保田辰輔さん・29年卒
■「平戸」散歩 寄稿:石田康臣さん・38年卒
■平戸の「今」「昔」 寄稿:濱田圭子さん・38年卒
■もっと交流を 寄稿:吉居辰美さん・38年卒
■「あの玄海を染めているのは夕陽血か」 友情寄稿:岡部耕太・伊万里高校39年卒
■ <海洋クラスター都市構想>にご理解とご支援を熱い心の猶興の友へ相川欣也・29年卒
「丘陵と海と人の暮らし」
地理上で佐世保から北を北松浦半島と言い、起伏のはげしい山地(丘陵)がそのまま海に落ち込んでいる。
この地における近代的産業の出発や進路を拒んできた宿命的な地形だ。
それを海から、一望のもとに眺めてみたかった。
昭和30年、博多港から佐世保へ向かう貨物船をキャッチし、頼み込んだ。
真夏の烈日が甲板に跳ね返り、船はゆるゆると進み、辛抱の果て視界に入ってきた鷹島のはるか沖からのふるさと松浦市あたりは、陽炎の中、闇緑の立ちはだかった単なる山脈であった。
九十九島の海峡では景色は鼻先で楽しめたが、陸の斜面がいきなり海の中である。
後年、何度か高速船でつっ走ったが、松浦の火力発電所の白い蒸気が黒ずんだ背景に斑点をつくる程度の変化だ。
北松浦半島は、海から立ち上がってじっと不動の姿である。そこはしかし、本来、豊かな内実を持つ。
垂直、水平にはげしい凸凹は、それ自体が楽しい。
伊万里湾は深く優美な曲線を描き、その西端の星鹿半島の足下から田平への十数キロの磯は荒々しく、ルートを探しながらの磯歩きはささやかな冒険心を満たす。
渚に一線をなして延々と続く漂着物には、遠く黒潮に乗ってきた珍品も混ざっている。
鹿町、小佐々、相ノ浦の海岸線は小刻みに曲折して小入江を随所につくり、自己主張がある。相ノ浦〜津吉間に海峡を結ぶフェリーがある。平戸の南端から外海側をたどってぐるっと一回りもいい。
丘陵内には四通八達、古来からの往還がある。うち捨てるには惜しいコースだ。北松浦半島は多様だ。
その特性を小さなエリアの人々が自ら存分におもしろがり、おもしろがることを目的として行動の輪を押し広げて、結果として何か新しい進展への道につながらないものかと思うのである。(久保田辰輔・29年卒)
「平戸」散歩
成人式を迎えた真紅の吊り橋「平戸大橋」を渡ると、ゴールデンウィークの期間「渡海人(とかじん)祭」が開催されていた。
平戸の特産品の即売、平戸芸能大競演、地引き網、魚つかみ大会等約4万人で賑わっていた。
爽やかな春風を受け2キロほど進むと白亜の学舎「猶興館」が見まごうまでに立派な殿堂として蘇っている。
樹齢400年にのぼる槇林を縫っていくとリニューアルオープンの平戸城に着く。35代藩主松浦観中ひろむ公が島内八十八ケ所の順路を定めた「平戸嶋八十八ケ所巡拝図」が新たに展示されていた。
対岸には、平戸市街を一望できる「ミューゼアム・ショップ眺望亭」が松浦史料博物館にオープンした。
蔵をイメージした和風造りの建物の中は400年前のヨーロッパの雰囲気だった。日本画家「勝田深水」氏(女優「朝丘雪路」の弟)のデザインと聴く。
ご本人から詳しくお聴きし「納得」。また、館長の人脈の広さに脱帽。
遠足コースの川内峠の中程に「ライフカントリー運動公園」がある。野球場では「有藤選手の野球教室」が開かれ、毎年野球少年に夢を与えている。
その側には、大きな夢を育む「植樹ゾーン」がオープンしようとしている。5月には早速「平戸ツツジ」のボランティア植樹会が開かれる。
数年後には、ツツジの園が誕生する。
卒業年次毎の「記念樹」があっても良いのでは。平戸での同窓会の集いの場となりうる。
川内峠を過ぎると、350年前台湾をオランダから開放した英雄「鄭成功の生誕地」川内湾千里ケ浜に辿り着いた。
7月には往時を偲びヨットレースを開く。おお息づく平戸よ!(石田康臣さん・38年卒)
平戸の「今」「昔」
“おんまや”の波止場には、田平からの渡海船が高校の始業に合わせ行き来している。
自然石を積み上げ、粗っぽくコンクリートで舗装された船着き場には生徒達の元気のいい声が響き渡る。
体育の授業では、そのまま船着き場が特設プールとなる。
教室の窓の外には石を投げ海面を叩き盛んに網を引く“アゴ漁”の光景がある。
校歌にある白亜の学舎は、戦争という歴史の継続を強く感じさせるものであった。これは当時を思い浮べたとき、青春の真っ只中にあった者が一様に感じる光景ではなかったろうか。
時を過ぎ昭和52年紺碧の海と亀岡の緑に映える深紅の平戸大橋がかけられた。
時の流れだけではなく大橋は平戸の「今」と「昔」を大きく変えて来たように思う。
大橋を渡るとすぐに「岩の上大橋」が目に入る。かっては、平戸の街中を通り川内方面へ向かった車も一機に鞍掛へと抜けてしまう。
特設プールであった海も護岸整備がされ、テニスコートほかのミニグラウンドがその一角につくられた。
赤坂の総合運動公園を囲んで走る生月までの裏道も生月大橋の架橋とともに整備された。
平戸港周辺はフェリーが通わなくなり大きく様変わりし、今またオランダ商館復元という大きな課題に取り組もうとしている。
緑の中の平戸城、寺院と教会、白壁を巡らせた松浦史料博物館、昔ながらの眺望で心を和ませてくれる川内峠等々。
平戸を故郷と感じている人たちに対しても変えてはならないもの、大事に受け継ぎ残していかなければならないものをしっかり見極め、護っていくことが平戸に残っている者の責務だと思うこの頃である。(濱田圭子さん・38年卒)
もっと交流を
平戸は古来、交流によって栄えた町である。
日本初のポルトガル、イギリス、オランダなどの商館が建ち、外国人の人々を積極的に受け入れてきた。
鎖国後も歴代の藩主は、著名な学者などを平戸に招き素晴らしい影響をもたらした。山鹿素行の子孫の平戸定住。幕末の志士に大きな影響を与えた陽明学者佐藤一斎の藩校維新館における講義。その維新館の流れが猶興館へとつながっている。
伝統ある平戸文化は、平戸独自で考え出されというより、殆どが交流によって生まれたといえよう。
近年平戸では、渡海人祭り、田助ハイヤ祭り等各種のイベントも計画されるようになった。しかし、観光客も減り、人口が減少し、人々の交わす会話も何となく淋しさを感じる。
この様な時こそ、お互いがもっと交流し、新しい発想、ヒントを得るようにしたいものである。
先日、東京出張の機会を利用して同窓生と東京神田で親しく語り合う機会をもつことができた。中には、高校卒業以来はじめて会う者もいて、懐かしい限りであった。それにも増して、それぞれの立場で活躍している友人との語らいは、刺激が多く目の醒める思いであった。
過疎化する郷土に活気を与えるには、地元に住んでいる者だけで頑張っても狭い考え方に終わってしまう。幸い、わが母校には、全国で活躍しておられるたくさんの先輩、後輩がいる。それらの人々と地元の人々がもっと交流を図る必要を感じる。私も東京から帰り、さっそくささやかな一つの取り組みを始めた。それは異業種交流の勉強会を通して、郷学を振興させようというものである。「真の郷土の振興は、先人の遺風、業績を新たに掘り起こすことから始まる。」と考えるからである。勉強だけに終わらず、少しでも具体的な形として行動できるような会にしたいと思っている。
次の機会には、その成果を一つでも報告できるようにしたい。
今、平戸(郷土)が生き残っていくためには、人々の心を活性化することが何より大切である。
猶興館同窓生の皆さん、「郷土はこうしたらどうか。」という提言をどしどしお寄せ頂きたい。(吉居辰美さん・38年卒)
あの玄海を染めているのは夕陽が血か
一昨年、猶興館の生徒に「異聞源平盛衰記・風と牙」という舞台を観て貰った。
この舞台は「松浦党」をテーマにしたものである。源平合戦に「松浦党」の見目麗しき姫が馳せ参じ、頼朝と義経との争いの原因をつくるという芝居である。
「松浦党」は頭領を持たない穏やかな集団であった。鎌倉武士からは「松浦党は烏合の衆」と罵られた節がある。それに憤慨した松浦吾妻姫が「松浦党」を結束させ、平家を相手に大活躍するという話である。
「松浦党」は唐津から平戸まで、あの海を縦横無尽に行き来して、大陸との貿易にも盛んに活躍している。長崎県の県北や佐賀県の唐津、伊万里の人間ならば「松浦党」と聞いただけで血が騒ぐはずである。だれにも「松浦党」の夢とロマンの血は流れているはずである。
猶興館の生徒は観劇マナーもよく、「松浦党」の活躍する舞台を食い入るように観てくれた。
もともと「元寇」を舞台にしたくて考えていたものだが、「元寇」のあまりにも規模の大きさに慎重になり、まずは「松浦党」が主となる「風と牙」を書いたのである。やはり「風と牙」を書いてしまうと、どうしても「元寇」をやりたくなる。血が騒ぐのを押さえることは出来ない。作家は風土で育つ。間違いなく僕はあの海を見て育った作家なのである。
今年の秋、念願の「元寇」を上演することが決定した。伊万里、松浦市、平戸市、壱岐、五島、これらの「松浦党」に所縁の深い土地で「元寇」を上演することが決定したのである。武者震いとはこのことである。ぼくは、西海の海を睨みながら「元寇」を書いている。(岡部耕太・伊万里高校39年卒)
<海洋クラスター都市構想>にご理解とご支援を
<クラスター>というのはぶどうの房。房のようにリンクした都市展開が<クラスター都市構想>です。
私達のふるさと松浦地区に民間主導の新しい地域振興策が出ています。
一極集中ではなく、多極連合、地域連携型の新しいまち起こしの手法です。<クラスター都市構想>は一人のマルチ人間小倉理一氏(西日本流体技研社長)の頭脳から生まれ、地元では中央省庁からゲストを招いたフォーラムやシンポジュウムなどの開催に数千人の人々が集まり、支持、支援の輪も拡がりこの構想を踏まえた新しい事業の展開案も続々と生まれるようです。
この<クラスター都市構想>は、県域を伊万里、有田を含む佐賀県西北部、佐世保、平戸、松浦、北松浦郡の四市十六町一村を六つの<クラスター>に分け、地域の特性を生かした競合ではなく機能分担型の街づくりを目指すものです。
勿論、民間主導だけではこのビッグプロジェクトは実りません。民提案で官支援、そして産学も協力してこそのまち起こしです。また「地域連携」「地方自治」は最近の国のキーワードの一つでもあります。国(官)の施策、主張にも添った、いわば時流に乗った提案だと思われます。
この秋の、国土計画、次期全総(全国総合開発)策定の中に調査モデル対象プロジェクトとなる様、中央官庁への要請も地区の首長や各クラスター代表が重ねて行っております。その中でふるさとを離れて首都圏に住む我々も何らかの応援をと、有志の方々と<海洋クラスター都市構想>東京フォーラムを発足させました。今後の地元の動きに併せて支援のパワーをステップアップさせて行きたいと考えます。ふるさとを共にする同窓の皆様のご支援をお願いします。
<海洋クラスター都市構想>東京フォーラム事務局 相川欣也(29年卒)
■海洋クラスター都市構想推進協議会のホームページはこちらです。
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1999年7月18日 田無駅前 「鮮の庄」にて